不動産屋からもらった地図を頼りに着いたところは、思っていた以上に鄙びた漁港でした。
平日、昼過ぎということもあって停まっているクルマも少なく、空にはトンビが鳴いています。
正面に目をやると、威風堂々と海に突き出した桟橋が。
おもわず『おおっ』と声があがりました。その桟橋の先には見事な富士山がそびえているのです。
逗子の近くにこんな場所があるなんて知らなかった、そう二人で話し合いました。

ひと通り昨夜のイメージや昔の記憶と照らし合わせて満足した僕たちは、帰ろうかという段になって「はて、その物件ってどれなんだろうね?」と気になりはじめました。
駐車場から適当に付近を歩いてみましたが、『売家』などの看板はどこにも見当たらずあきらめかけていたそのときでした。
海に下る細道をたくさんの犬を引き連れてこちらに近づいてくる人が目にとまりました。
それは視線が釘付けになるほどのインパクトで…。
長髪で上半身は裸(たしか10月後半頃)、日焼けした肌にびっしり入ったタトゥー、犬はいったい何頭いるのか数えられないほど、それは鵜飼いのごとく、両手に無数の手綱を携えている。
間もなく横を通り過ぎるはずだったのですが、何故か僕の前で立ち止まったかと思うと、「こんにちわ!」と。
都心に暮らす僕らは人とすれ違うときに挨拶をする習慣もなく、誰かと人違いしているのだと思い返信に戸惑っていたら、もう一度「こんにちわ! 今日はなんすか?」と。
『なんすか?』っていうのは目的を訊いているのか、なんと答えたらこの状況から逃げ出せるのか(笑)を考えて「あっ、今日は家の物件を見にきたんです」と僕。
彼はなんの屈託もなく続けます。
「へー、家ですか。この辺りは住むには天国ですよ…じゃっ!」と言い放ち、坂道を犬に引かれるように下って海に歩いていきました。
ホッとしたとともに天国、という普段あまりきかない言葉が妙に心に残りました。

さて、結局家も見つからないまま帰宅時間も気になり、駐車場へと向いました。
自分たちのクルマの脇にはスーツを着た男性が立っていて、僕らを見かけるなり満面の笑顔で声をかけてきました。
「今朝、ご連絡いただいた方ですよね? 中野にお住まいの…」
ここでようやく、FAXを送ってもらう際に区を訊かれたこと、そして駐車場に停まる『練馬』ナンバーはこのクルマだけ、ということに気がつきました。
「いや、家を買うつもりはなくて…」と苦笑しながら切り抜けようとしましたが…。
「すぐ近くです。少しだけでも見ていかれませんか?」
彼の営業熱心さにほだされた気持半分、好奇心半分で彼の後に続くことにしました。
「売り主さんがまだ住んでおられるので、中を見ることはできないのですが…」
そう説明された場所はさきほどの犬の人と遭った場所。
なんだ、ここだったんだ。まぁ平凡な家だな、というのが印象でした。
「少しのお時間でいいんで、物件を説明させてもらえませんか? どこか近くのファミレスででも」
「いや、子どもたちが学校から帰ってくるんですよ」と妻。
なんかこのままだと彼は帰って上司に怒られるんじゃないか、まだ30分くらいなら大丈夫だ、などと考えた僕は「本当に少しだけですよ。それくらいいいじゃない、ね?」と彼の申し出を受け容れたのです。

そこから最寄りのファミリーレストラン(森戸のデニーズ)の席に着いたが早々に、彼は写真と間取り図を取り出し、説明をはじめました。
「家もさることながら、国道から海側の物件ロケーションは滅多に出ないんです。探してる人は大勢います。今日現地を見られたお客様は本当にラッキーですよ…」
ふーん、そうなんだ。
彼の熱心な説明より、僕の頭の中に浮かんでいたのはあの坂道で出逢った犬連れ男の「天国ですよ」という台詞でした。
天国って、そうそう言わないよなぁ。あの人、毎日天国で暮らしているのかぁ。
営業マンはついに価格を切り出してきました。まるで自信に溢れた切り札を出すように。
へー、思ってたより安いなぁ。
それには少し売り主の事情があって、売り急いでいるからとのこと。「これはネットに出すと、瞬殺でなくなる物件ですよ」とも付け加えた。
それに対して、僕が発した言葉は彼と妻を硬直させました。

「わかりました、この家を買います」

葛藤や躊躇した記憶はほとんどない。同時に彼も妻も『えっ?』という顔。
妻には「いいんじゃないかな」と加えてから、「とりあえず、今日は時間もないから帰って銀行に相談してみます。仮契約ということでいいですか?」。
営業マンはすかさず、書類を出してここに捺印をと言われたのだけど、もちろんハンコは持ち合わせてないのでサインをしました。

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そこからの帰り道、車中のなかで妻が言います。
「あれ、買ったことになるんだよね?」
「そう、だね」
「うち、お金ないよ」
「まぁ銀行に相談してみようよ。ダメならダメで」
「この前まで家は買うもんじゃない、って言ってたよね? なんで買おうとおもったの?」
その質問については僕も考えてました。
それほど衝動買い癖がある訳でもなく、いやむしろ慎重な方だと思っています。
ましてや、妻の言う通りで旅が大好きな僕や妻はどこかに根を下ろすということはしばらくはない、と思っていたのです。
都会に暮らし、小学生の子どもも二人、家を買う為の貯金なんて考えてもいませんでした。
『ではなんで?』
まるで自分の口が言ったこととは思えないような大胆な発言。なにも比較検討もしていない男前過ぎる決断(笑)。
もし、理由があるとすれば…あの犬連れの男の言葉、としか言いようがないのです。
彼がいった『天国』。
営業マンがもし同じ台詞を言ったとしても、たぶん心は動かされなかったでしょう。なんの縁もゆかりもない、ただの通りすがりの男が『ここは天国だ』と言う言葉を信じないで何を信じろ、というのでしょう(笑)。
彼はきっと神様が姿を替えて僕の目の前に現れたのだ、とホンキで考えました。
そのことを妻に話すと『バカじゃないの?』と半ば飽きれた口調でいわれましたが、この大きなハプニングに対してまんざらでもない、という感じでした。

さて、そこからは銀行との戦いが始まるのですが(笑)、それはまた別の機会に。
すったもんだの末、僕ら家族は翌年の春から中野〜三浦を毎週通いはじめるようになるのです。
完全に引っ越したのはその翌年です。
僕の”三浦サボりライフ”はすべてここから始まったのです。

あの神様とはその後知り合い、ある日そのときのことを彼に話してみました。
「オレ、そんなこと言いました?憶えてないなぁ..」
僕はやっぱり神様が乗り移っていたんだ、と確信したのです(笑)。

おわり

こんにちわ。
初めての方ははじめまして。
寒川(さんがわ)と申します。昨年より夏の間は油壷で海の家をやっておりまして、どうにも筆が遅くなってすっかり出遅れてしまいました。
サボりの寒川、ということで改めてヨロシクお願いします。

さて、僕は現在横須賀市の秋谷というところに住んでおります。職場同様に海のそばです。
おそらく、このコラムを書かれている方の多くが海の近くに住んでいる方ですよね。
そしてほとんどの方が、どこからか越してきたのだとおもいます。
いろんな事情があるのでしょうね。どんなきっかけで三浦半島に引っ越してきたのでしょう。
これから三浦の事をいろいろと語るにあたって、まずは僕のそのいきさつを書いてみたいとおもいます。

僕らが三浦半島に住み始めたのは10年ほど前のことです。
当時、中野で暮らしていたのですが、今の暮らしとは正反対で昼夜逆転の日々でした。
深夜に仕事をしていて、プリンターのインクが切れたとします。自宅から数分も歩けばドン・キホーテがあってどんな時間でも
なんの問題もなく欲しい物は手に入ります。その帰り道にフレッシュネスバーガーなんかをのぞくと、真夜中にも関わらず満席だったり
するのです。通りには普通に人が歩いていて、都会ってスゴいなぁなんておもうわけです。

そんな暮らしも3年ほどたち、その便利さも日常となったある日のことです。
夜中にネットサーフィンをしていたときにふと、パソコンのモニターいっぱいに海の画像が現れたのです。
浅葱色の海の真ん中に突き出した桟橋、その先には富士山がそびえています。その位置から一目で相模湾のどこか、
ということはわかりました。実は僕ら夫婦は結婚してすぐ4年間ほど逗子に住んでいたのです。
それにしても美しい景色でした。

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画面をよく見ると『横須賀市秋谷 物件より前の海をのぞむ ◯◯不動産』という文字が小さく隅にありました。
物件広告なのか、とよくよく見ても家らしき情報はどこにも見当たりません。
翌朝、朝食後に妻にその画像を見せました。

『ほら、スゴく綺麗な海だろ。秋谷ってたしか葉山の近くだったよな。こんなところあったっけ?』

『ほんとだ。久しぶりに海が見たいね。これからそこ行ってみる?』

『行ってみようか。2時間ぐらいで着くかな。』

子どもたちは学校にいっている。自営業者の強みで急遽、海までドライブしようということになったのです。
しかし、その場所がわからない。
仕方なしにその広告にあった不動産屋に電話をしてみました。

『あのー、インターネットで見たのですが、海に桟橋が突き出したところ…』

すべていい終わらないうちに

『あー、あれですか。まだ物件の詳細を出してないんですよ..』

予測通り、営業意欲満々の口調でした。
こちらもいい終わらないうちに

『あっ違うんです。家に興味があるわけではなくて、画像にうつっていた海がどこか知りたくて』

少し戸惑い気味な営業マンは続けます。

『いいですよ、地図をFAXで送りますから番号教えてください。ちなみに何区にお住まいですか?』

僕は中野区に住んでいることと、FAX番号を伝えました。

しばらくして不動産屋からFAXが届きました。それには場所の地図に加えて中野からの簡単な道順も書いてありました。
僕らは夕方までには帰ってこよう、と三浦半島に向かって車で走り出しました。

(つづく)