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赤犬「エル」

小学3年生のころ、家には赤犬がいた。
広島の西の外れの海沿いの実家では、隣の親戚の家と2軒で1匹の赤犬を飼っていたのだ。
柴犬をふたまわりほど大きくしたような茶犬で、口の周りだけが黒い犬だった。
放し飼いで、夜はどちらかの家の軒下で丸くなって眠っていた。
餌は冷やご飯に味噌汁と残った魚の骨などをそれぞれの家があげていて、どちらかの家があげているものだろうと思ったら、3日も与えていなかったこともあった。
それでも文句ひとつ言わない賢い犬だった。
エルと遊びたい時はお菓子の入っていた空のビニール袋をぐしゃぐしゃと音をたてると、どこからか走って来た。
隣のおじいちゃんが仕事から自転車で帰ってくる時間には、橋のたもとで毎日お座りをして待っていた。
おじいちゃんはエルの頭をひと撫でして、自転車を押して一緒に坂道をのぼって帰ってきた。
それは冬の寒い朝だった。
隣のおじいちゃんとお父さんが近所の農家のおじさんと深刻な表情で話し込んでいた。
「今朝、おたくの犬がうちの鶏を襲ったんじゃ」
「・・・」
エルが鶏を殺した?
しばらく黙り込んでいたおじいちゃんが、
「誠に申し訳ない」
「今日、山に、捨てに行きますけえ」
山に、捨てる? エルを…捨てる?
お父さん、エルを山に捨てに行くって…。
どうして、どうして…。
「しょうがないんじゃ、迷惑かけたけえのう」

おじいちゃんは軽トラックの荷台にエルを抱えて乗せようとしていた。
エルはどこか楽しいところへ連れて行ってもらえるものと、よろこんで尻尾を振っていた。
「お前も乗ってくか?エル捨てに行くけえのう」
僕は助手席に乗って、荷台のエルを見つめていた。
おじいちゃんの軽トラックはどんどん山道を進んでいった。
「どこまで行くの…」
知らない道を1時間ほど走ると雪深い谷に着いた。
もうここから先は道が無い。
エルは荷台から飛び降りて、ふわふわの雪の中を楽しそうに走り回っていた。
僕はエルの顔を毛糸の手袋のまま撫でまわした。
「帰るけえ、乗れ」
おじいちゃんが言った。
エルはまだ雪の中を走り回っている。
新聞紙にくるんだ握り飯を放り投げて、おじいちゃんは車のエンジンを掛けた。

軽トラックがゆっくりと走り始めると、気がついたエルがひょこひょこと追いかけてきた。
だんだんとスピードを上げると、白い息を吐きながらエルがあわてて走ってくる。
おじいちゃんはハンドルを力一杯握っている。
まっすぐな道に出ると、エルは離れた。
それでもエルは粉雪を撒き散らしながら、おじいちゃんの軽トラックをいつまでも追いかけてくる。
その内にエルが立ち止まった。
きっとこれ以上走れなかったんだろう。
おじいちゃんはアクセルを踏んだ。

一度も来たことのない遠く知らない雪の山の中にエルを捨てた。
捨てられるなんてなんにも知らないエルを捨ててきた。
帰り道、僕は助手席でぼうっと外の景色を見ていた。
おじいちゃんは一言もしゃべらなかった。
エルはこんな吹雪の夜にどこで寝るんじゃろうか…。
食べるものはあるんじゃろうか…。
ひとりでさみしいじゃろう…。
まさか捨てられるなんて知らないのに…。
僕は家に帰って布団の中でわんわん泣いた。

ペットショップのショーケースの中には可愛い仔犬が並んでいる。
無心におもちゃをかじっていたり、のぞき込むとくりくりとした瞳で見つめ返してくる。
その愛らしさは疑うことを知らない純粋なこころの美しさ。
毛並みや顔つきが少しずつ違うとしても、人間の好みで売れ残る仔犬もいるのだろう。
買ってもらえたとしても、飼い主の都合で捨てられる犬もいるという。
犬はどんな時でも飼い主を信頼して寄り添っていてくれる。
時にはわがままも言うし、雨の日でもかまわず「散歩に行こう!」と言う。
遊び足りない時にはいろいろなものを破壊することもある。
連れていけない場所には旅行もできない。
それでも人間が悲しい時には一晩中そばにいてくれる。

エルがいなくなったことについて、家族の誰も話そうとはしかった。
エルを捨てに行って4日目の寒い朝、お父さんに言われて風呂を沸かしに裏庭へ出た。
勢いよく薪を釜戸に放り込むと「ギャン」という声がして、釜戸の中から真っ黒にすすけたエルが出てきた。
夜中か明け方に戻って来て、まだ暖かさの残る釜戸にもぐり込んだのだろう。
3日も4日も雪の中を歩いて帰ってきた。
「エルが帰って来た!エルが帰って来た!」
僕はみんなに聞こえるように大きな声で叫びながら走りまわった。
隣のおじいちゃんも、おばあちゃんも、お兄さんも、お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんもみんな出てきてエルの体を撫でまわした。
「どうやって帰って来たんじゃろうか?」
「なんか食べさせんといけんね」
「真っ黒じゃけえ風呂へでも入れるか」
「それにしても、よう帰って来たもんじゃのう」
もう誰もエルを捨てようなんて言わない。
エルは僕が中学を卒業する頃まで、毎日同じ時間に橋のたもとでお座りをして、おじいちゃんが帰ってくるのを待っていた。

終わり

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きょうのうた ー Don McLean「Vincent (Starry Starry Night) 」

画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに語りかける歌。
人々が彼を狂気と呼ぶのは、私たちが彼を理解していないからだ、
彼こそが美しい魂の持ち主だと歌っている。
犬にとって主人は一人だけだと聞く。
赤犬エルの唯ひとりの主人である「おじいちゃん」は、今にして思えばゴッホに姿も似ていたような気がする。


藤沢宏光(フジサワヒロミツ)

fujisawa
仕 事: カフェ&バール ミサキプレッソ、ミサキドーナツの運営と、かもめ児童合唱団のプロデュース
出 没 地: 三崎下町の飲み屋と三崎港周辺(夜釣り)
自慢できること: 事態を深刻化させない生き方(実際は大変深刻)
好きなこと: 釣りと鉄板(広島風お好み焼き)
ひとこと:その内、何とかなるだろう
2004年春に三崎下町に移り住む。2008年より、かもめ児童合唱団のCD作品のプロデュースを始める。2008年10月1stシングル「城ヶ島の雨/あなたが美しいのは」発売。2009年3月2ndシングル「トラベシア/三崎の歌」発売。20105月1stアルバム「焼いた魚の晩ごはん」発売。2010年3月「ミサキプレッソ」オープン。2011年3月ミサキプレッソ1周年イベント「ニューミサキパラダイス」実施。2012年12月「ミサキドーナツ三崎本店」開店。2013年3月かもめ児童合唱団「私の世界」レコチョクで1位獲得。2013年9月「ミサキドーナツさいか屋横須賀店」オープン。2013年10月「ミサキドーナツ逗子店」オープン。2014年11月「ミサキドーナツ鎌倉店」オープン。ミサキドーナツでは主に配達と閉店後の掃除を担当。音楽のプロデュースをすることもある。(大物専門)普段は釣りをしている。(大物専門)
ミサキプレッソ:http://misakipresso.com
ミサキドーナツ:http://misakidonuts.com
かもめ児童合唱団:http://www.kamome-miura.net/
http://www.youtube.com/watch?v=168rzdbo1ok