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Misaki Fan Interview File#02
インタビュー#02

いしいしんじ 1966年大阪生まれ。96年、短編集『とーきょーいしいあるき』を、2000年、初の長編小説『ぶらんこ乗り』を刊行。03年、『麦ふみクーツェ』で第18回坪田譲治文学賞を、12年、『ある一日』で織田作之助章を受賞。著書に『ポーの話』『みずうみ』など。


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三崎に新しい”生”があった -後編-
小説家 いしいしんじ

いしいしんじさんが、三崎の町に移り住んだのは2001年からです。いしいさんは前回のインタビューで町の子ども達と遊んだり、祭りに参加したりしながら、「いろんな良い巡り合わせがあって三崎という町に自然と入ることができたんです」と語っていました。
Web上で連載されている「いしいしんじのごはん日記」には、地元の人との交流や町での出来事など三崎の町で過ごした10年間が記録されています。
インタビュー後編では、その10年間で感じた三崎の人たちの気質、いしいさんの三崎での生活について話を訊きました。そして9/28、29に開催する「三崎いしいしんじ祭」について、なぜこのような祭りを開催するのかを語っていただきました。その語りのなかでいしいさんは何度も「新しい”生”」という言葉を使われています。その言葉には三崎への深い想いが込められています。


「三崎の人は素っ裸やもん。みんな、カッコつけてるけど裸なんです。例えユニクロを着てても裸やもん(笑)。」


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―三崎に住んでみて、いしいさんは三崎の人についてどのように思いました? 三崎の人の気質みたいなものがあると思うんですが。
いしい:カッコつけやよね。見栄をはるとか、そういうカッコの付け方じゃないんだけど。例えば何かを頼まれたら、それを出来るとか出来ないとかを考える前に引き受けてしまう(笑)。そういうカッコをつける。
三崎の人ってみんな、三崎のことが好きなんですよ。で、三崎のどんなところが好きかっていうと、自分たちの気質なんですよ。なんかね、それは凄く大事なことのような気がする。

―というと?
いしい:例えば、お金があったほうが良いとか、アッパーな暮らしのほうが良いって多くの人が思ってますよね。あと流行とかもある。ブランド指向とか、健康指向とか。そういうみんなが良いと思うような価値観がこの何十年間、日本にはあったと思うんです。

―そうですね、そういう共有する価値観はありますね。
いしい:それが行き過ぎて化粧品の広告も「50歳になってもガーリー」とかまでいったりね(笑)。

―アハハ。若けりゃ何でも良いみたいな(笑)。
いしい:まあ、そこまでいかなくてもね。根底にはみんな同じ服を来ているのがいいんじゃないっていう発想があったり、いつでも同じような食料品が買えるほうがいいって思ったりするわけですよね。だから大きなスーパーとかが求められる。

―みんなが良いと思っているものは、自分の町にも欲しいですからね。
いしい:それでね、三崎の人も大きなスーパーが来て欲しいと思ってるはずなんですよ。でも、三崎の人はそれを欲しいとは言わないんです。それがカッコつけてるってことなんですよ。

―ああ、なるほど。
いしい:三崎の人もイオンやファーストフードが入ってきて欲しかったと思うんです。ひょっとしたら、三崎にリゾートマンションとかが建って、サーフショップなんかがあったりして、人が沢山歩いていた方が良かったかもしれない。裏路地に猫がぞろぞろ歩いているより、街角でサザンとかが流れている方が良かったかもしれない。

―そういう発展の可能性もあったかもしれません。
いしい:でもバブルの時でさえ経済の波っていうのは横須賀どまりだったわけです。だから、三崎にあの町並みが残ったわけですけどね。それは残ってしまったとも言える。そういうことをね、三崎の人は口に出して言わない。
経済や流行の波が届かなかったかもしれないけど、三崎の人はそれを残念とは言わない。それが三崎の人の気質の核心にあるんじゃないかな。僕はそれが三崎らしさだと思うんです。それを三崎の人たちはカッコつけて守ろうとしているんですよ。だから三崎にはあんなに野生の形の祭りが残っていると思うんです。言葉にするのは難しいけど、祭りの時にみんながあらわにするアノ感じ、あれこそが三崎らしさだと思う。

―そういう三崎の人の気質がいしいさんに合ったんですかね。
いしい:なんかね、俺はどこに住んでいてもまわりからは浮いてるなって思ってたんです。それは大阪とか京都にいても思ってました。僕はそういう人間なんです。そういう人間に対してね、三崎の人たちは「なんでこんなにも良くしてくれるんだろう?」って思ってた。

―こんなにも良くしてくれるって感覚があった?
いしい:ありましたね。それも、みんながですよ。みんながみんな良くしてくれる。三崎の人はみんなオモロいし。なんか、みんな俺のこと知ってるし(笑)。三崎の人は素っ裸やもん。みんな、カッコつけてるけど裸なんです。例えユニクロを着てても裸やもん(笑)。

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「本当にね、自分が生きるっていうことがここから再び始まったと言える。自分が新たに生まれた場所なんです。」


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―いしいさんにとって「まるいち」という魚屋さんは、三崎の生活を語る上でも欠かせないものだと思います。
いしい:うん、「まるいち」は凄く大きな存在。もう、魚屋ってすごいカッコいいって思ったからね。
実は、僕は料理なんか全然知らなかったんですよ。浅草に住んでいたときに「アジの塩焼きを作ってみよう」って思ったんですけどね。割り箸をアジの口に突き刺して、コンロの直火で焼いて真っ黒こげにしたりしてた。もちろん外は焦げてるけど、中は生焼けですよ。まあ、アジは刺身でも食えるから良いかなって思って、塩をかけて食べたんですけど(笑)。

―かなりなものですね(笑)。
いしい:だってね、魚焼きグリルってあるでしょ? あれね、食器を洗って渇かす場所やと思ってたからね(笑)。もう、アホですよ。そういう人間がね「まるいち」に行って「この魚はなんですか?」って教えてもらっていた。

―「まるいち」が魚の学校だったんですか?
いしい:そう。で、「それはイワシって言ってね、刺身で食べても焼いて食べてもおいしいよ」って教えてくれる。さすがに、三崎に来たときは魚焼きグリルの使い方も知ってたから―浅草のスーパーでおばちゃんに教えてもらったんですけどね(笑)―、まあ、だからイワシを焼いたりすることはできる。で、食べてみるでしょ。もうね、仰天で美味いわけっ! しかもイワシが4~5匹で150円くらいですよ。

―安いし、珍しい魚も売ってますしね。
いしい:めといかの食べ方とかを教わったりしてねぇー。

―いいですねー。楽しそうですねー(笑)。
いしい:当時、僕が三崎でどういう生活してたかっていうと、まず朝の5時くらいに起きるでしょ。それから机に向かって、11時くらいまで小説を書くんですよ。で、1回「まるいち」に行って魚を選んで昼ごはんにする。それで、また2時くらいまで書いたら、今度は浜諸磯(相模湾側の磯)に行く。で、落ちているとこぶしなんかを拾う。あくまで獲るのではなくて落ちているものを拾うんです(笑)。まあ、歩いてみてください。ときどき2~3個落ちてるからね。
そのとこぶしを持って、途中で大瓶のビールを買って家に帰るわけです。で、とこぶしをつまみにして飲むでしょ。それでまた、夕方くらいになったら「まるいち」に行って昼に予約していた魚を買って帰るんです。その魚を晩ご飯にして、本を読む。後は寝るだけです。ほんと、毎日のようにそんな生活をしてましたね。

―お金は掛かってないけど、贅沢な暮らしですよね。なにより毎日美味いものを食べている。
いしい:そうそう。だから「まるいち」に出会って食べることは面白いってことがわかった。食べるということは大事なことなんだよって美智代さん(まるいちのおかみさん)に教えてもらっていたんです。

―それまでは、あんまり食に対して興味がなかったわけですか?
いしい:自炊をするようになる前は外食しかしてなかったんです。それもメニューを選ぶのもめんどくさかった。だから浅草時代は行きつけの中華料理屋さんに「俺が来たら、冷やし中華を出してください」ってお願いしてたんですよ。

―夏限定じゃないですか(笑)。
いしい:だから9月になったら店の中国人のコックさんが難しい顔で近づいてきてね。「冷やし中華は終わったよ…」って告げられた(笑)。それで冬はタンメンを出してもらうことになったんです。だから、当時の食事はパンと冷やし中華とタンメンばっかり。でも、それで良かったんですよね。それくらい僕にとって食べることはどうでもよかったんです。

―そんないしいさんが三崎に来てガラリと変わった?
いしい:さっき三崎に新しい”生”があると感じたって言ったでしょ? 新しい”生”っていうのは家の玄関を掃除をしたり、台所で食器を洗ったり、料理を作ったり、それこそ食べるってことだったんです。そういうことも全部含めて、僕には”新しい生”があったと思うんです。
だから、三崎に来てから「まるいち」の存在が僕の生活の基本になっていた。三崎に来て1人暮らしをしていたときは、身体の99%は「まるいち」の魚で出来ていたから(笑)。

―まさに料理の仕方から食べるということまでが三崎に来て変わったわけですよね。
いしい:東京に出かけても、「今日はムツが残っているから、帰りは京急ストアで豆腐と野菜を買って帰ろう」とか考えたりしてね。ほんと、そんな生活でしたよ。

―当時の「ごはん日記」には「ぼくは三崎にやってきたことで、日々の暮らしのピントが合ってきた」「三崎でごはんをたべながら、毎日、なにかを教わっているような気がいつもします」と書かれてます。いしいさん自身でも生活を変えたいと思っていたわけですか?
いしい:それはわからないんですよ。僕はあんまり自分のことについて考えない。だから、当時のことはわからないんです。
でも、浅草での暮らしが臨海点にあったことは確かだと思います。1999年には全身がアトピー性皮膚炎になって、精神的にも離人症って診断されていた。
なんかね、昔から生活がめちゃくちゃなほどカッコいいって思ってたんです。めちゃくちゃな奴ほど好きだった。だから、自分でもめちゃくちゃをやっていたんだろうけど…加減がわかってなかったんです。それで身体も精神もめちゃくちゃになってしまった。
でも、後悔はしてないんですよ。やってみたらから解ったこともあるわけです。だけど、そんな生活をずっと続けるわけにはいかないでしょ?

―確かにそうですね。
いしい:そういうめちゃくちゃになっていたときに、僕が4歳のときに書いた「たいふう」って小説を大阪の実家で見つけたんです。それを読んでね、すごい衝撃を受けた。もう、凄かった。僕が大人になって書いた作品には、この「たいふう」にある覚悟も勇気もなかった。ほんとね、すごい衝撃だったんです。

―衝撃ですか。
いしい:衝撃でしたね。でも、ガッカリでもあったんです。僕は文章も書くけど、カッコいいミュージシャンにもなりたかったし、凄い絵描きにもなりたかった。だけど全部は無理なんですよ。それがわかった。それに気づくことは自分にとって第一の生まれ変わりというか、あきらめだったんです。でもね、自分は4歳半のときに書いた「たいふう」のような作品を作れるということがわかった。僕はこれだけの表現を出来たということがわかった。
その感覚を大事にしようって書いたのが「ぶらんこ乗り」っていう小説だったんです。それは僕の最初の転換点だったと思います。それからね、今の嫁さんに出会ったり、お茶を習ったりしたんです。それで意識だけではなく、ちょっとずつ自分の生活も変わろうとしていたんです。その変わろうとしていた時に、あの三崎の海がぱっと目の前で開けた瞬間があったんです。あれを目にしたときにね、「飛び込め!」って感じた。

―三崎に出会うべくして出会った感じがしますね。
いしい:まあ、こうやって話すと筋道が通っているように見えるけど、その時はそんなことさえわからなかったんですけどね。

―その当時はいしいさん自身も混沌としてたわけですよね。
いしい:そう。自分を変えたいとか、こういう生活をしようとか思ってなかった。毎日が必死やったし。ただ、バスのなかで見たあの三崎の開いた光景に出会って、飛び込んだ。そこからね、自分が生きるっていうことがここから再び始まったと言える。自分が新たに生まれた場所なんです。それはどこに行っても変わるわけではない。

―故郷みたいな存在ってことですか?
いしい:僕にとって大阪は生まれた場所だし、大事な場所です。だけど、自分が選んだ場所ではないんですよね。でも三崎は自分が1人でやってきて、1人で生活を始めたところなんです。
今、僕は京都に住んでるけど、三崎から船出しているっていう感覚があるんです。はっきり言うと三崎の人間が京都に行って暮らしているという感じなんです。僕にとって三崎は母港なんですよ。

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「三崎の町は今、僕が生きている命の恩人みたいなものなんです。やっぱり僕にとって母港なんですよ。」


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―いしいさんが三崎の町に馴染んだキッカケとして祭りは大きかったわけですけど、今度開かれる「三崎いしいしんじ祭」はいしいさんならではのお祭りになりそうですね。
いしい:でもね、基本は三崎の人たち、おじいさん、おばあさんから子どもまで、みんなになんか面白いことをやってるなって思ってもらいたいんですよ。お祭りって、そういうもんですからね。

―まずは三崎の人に喜んでもらう、と。
いしい:他所から人が来てくれることはもちろん歓迎なんですけど、他所の人たちを「おいでよ」って誘って三崎の地元の人とみんなで一緒に混ざり合うようにしたいんです。そうすると本当に楽しい祭りが出来るのかなって思うんですよね。

―いしいしんじ祭でメインとなるのは、いしいさんが即興で小説を生み出す「その場小説」です。即興の小説とはどのようなものなんですか?
いしい:小説の言葉と、普段会話で交わされる言葉とは違うものなんですね。会話の言葉というのは、お互いに解り合う事が前提の社会的なコミュニケーションでしょ。だから、使う言葉の意味が一致していなかったらダメですよね。水面に舟を浮かべてボールをやり取りしているようなイメージです。

だけど小説は、もともと言葉にならないようなものを言葉で描きだすんです。例えば人が死ぬこととか、子どもを失った悲しみとか、人が生まれることとか、宇宙に投げ出された恐怖とか。そういうことを表現する。普段使っている言葉では追いつかないようことを言葉として表現するのが小説なんです。
さっきの舟の例えだと、小説は舟から海のなかに飛び込むわけですよ。その海の感触を確かめながら「ゴボゴボ」と表現をする。それは海の上の人には聞こえるときもあれば、聞こえないときもある。それが小説の言葉なんです。

だから「その場小説」は、そこが三崎であったり、松本であったり、京都であったり、北海道であったり、場所によって、その場の塊みたいなものが小説の言葉として表れてくる。しかも「その場小説」は即興なんで、言葉が瞬間的に飛び出してくる感覚がある。それは自分でも驚きだったりしますね。
だから三崎で「その場小説」をやるということは、三崎の人たちに世話になった想いとかよりも、さらに深みにある何かが出てくるかもしれない。それも自分でも思ってもいない形で出てくる。それが小説の言葉なんです。

―「その場小説」は観衆の前で行うわけですよね。1人で机に向かって小説を書くのと、人がいる場所で書く違いってなんでしょう?
いしい:それは全然違います。「その場小説」っていうのはその場で終われるんです。毎日毎日書いている小説っていうのはいつ終わるのかもわからないし、ひょっとしたら終わりがあるのかどうかも謎なんです。それは、しんどいっていうか……宙づりで歩いている感じがする。だから終われることがわかっているのは小説家にとってすごく楽なんですよ。その日に終わって良いっていうのが「その場小説」ですから。

―「その場小説」はその場で出すということが全てですよね。音楽のライブに近いと思うんですけど、ライブ的な気持ち良さがあったりするんですか?
いしい:気持ち良さを感じるまでの余裕はないですね。その場で書きながら次の言葉を探している。言葉を書きながら次の言葉を選択して、こういう流れになるのかっていうのを考えているんで頭はいっぱいいっぱいです。

―「その場小説」はいしいさんならではのパフォーマンスだと思います。あと、「いしいしんじ祭」ではいしいさんの友人によるパフォーマンスも行われますよね。
いしい:鉄割アルバトロスケットっていうのがパフォーマンスをするんですけど、有り体に言えばこれは寸劇です。もっとわかりやすく言えばバカ田大学の文化祭みたいな感じ(笑)。主宰の戌井昭人君っていうのは芥川賞の候補にもなっている作家なんですけどね。あと、音楽評論家の湯浅さんのバンド「湯浅湾」のライブもあったりもします。とにかく、どこかの会場とかでやるのではなく、あえて三崎の町のあちことでやりたいんですよ。

―それはまさに町のお祭りだからですよね。このいしいさん流の祭りを今、三崎でやるというのは恩返しという気持ちもあったりするんですか?
いしい:恩返しという言葉はおこがましくて自分では言いたくない気持ちもある。でも、そういう気持ちはあると思います。それくらい、この町には恩を感じているんです。だって新しい”生”っていうことに立ち返らせてくれたわけですよ。三崎の町は今、僕が生きている命の恩人みたいなものなんです。やっぱり僕にとって母港なんですよ。その僕が何を出来るのかって考えたら小説を書くことと、僕が知り合った人を紹介することだったんです。それを祭りという形で届けて、三崎の人たちにちょっとでも喜んでもらいたいんです。

Interview & Photo:クワムラハルヨシ

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この日のいしいさん。右足にマニキュアを塗っているのがポイントです。


「三崎いしいしんじ祭」

日時:平成25年9月28日(土)&29日(日)
会場:三浦市三崎下町周辺
運営:三崎いしいしんじ祭実行委員会
特設サイト:http://webmagazine.gentosha.co.jp/ishiishinji/

『その場小説』in三崎いしいしんじ祭
第1部 9月28日(16:30~)会場:海南神社
第2部 9月29日(16:00~)会場:三崎下町商店街特設会場
料金:1,000円(書きあがった原稿のコピー1ページ付き)
※各回100名様限定
予約:sonoba@gentosha.co.jp
※件名を「三崎いしいしんじ祭」その場小説予約として、希望日、名前、電話番号、予約人数を明記の上、お申込みください。


いしいしんじの三崎への過剰なアツき想いが新聞になった! 三崎いしいしんじ祭がまるわかり!

いしいしんじ新聞

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